2008年8月11日月曜日

ピートとパパの会話(JAZZ編その6)


パパ 「さて本日は、日本人ジャズ演奏家の話だったね」
ピー 「彼らが抱える根本的な問題とは何ぞや、ちゅー命題だよ」
パパ 「おっと、哲学的に迫ってきたな」
ピー 「日本人プレーヤーの演奏は、黒人プレーヤーに比べて
    何ら遜色を感じないけど、それが何か?」
パパ 「そうなんだけど、悲しいかな日本人はジャズのルーツを
    持っていない」「そこが米国人とは根本的に違うんだ」
ピー 「よく分からないな~、だって同じジャズを演奏するんだろ」
パパ 「日本で言えば、演歌の雰囲気を西洋人に出せるのか?
    という問題だよ。日本の'侘び寂び'の表現もそうだね」
   「要は演奏テクニックの問題じゃなくて、ルーツとして存在する
    固有文化を、芸術的に昇華表現でき得るかどうか、という
    問題なんだよ」「これは現地人にしかできない」
   「考え方、顔つき、仕草、雰囲気、全ての表現についてね」
ピー 「じゃー、日本人演奏家は物真似ってこと?」
パパ 「残念だがそうなるね」「平たく言えば、ジャズはアフロ・アメリカン
    の立場という社会的環境が育んだ芸術だからこそ、
    そこで育っていないと表現できない感覚があるんだな」
    「それが作曲や演奏法に出てくる・・・」
    「これは本質的な問題だと考えているんだ」
ピー 「つまり固有の芸術性ってことかな」「三つ子の魂百までだね」
パパ 「それが民族の持つ文化だと思うね」
    「ヴォーカルで比較するとよく分かるよ」
ピー 「ほほう?」
パパ 「例えば、阿川泰子はヘレン・メリルより歌が巧いと思うけど、
    英語の発音に気を使って歌っているから、ジャズの雰囲気が
    疎かにならざるを得ない、と言うと叱られるかな」
    「因みにヘレン・メリルは、'ニューヨークのため息'と称される」
ピー 「美空ひばりもジャズを歌っているよ」
パパ 「彼女は歌が物凄く巧いし、英語の発音も綺麗だね」
    「しかしね~、演歌のコブシが入るんだな~、ほんの僅かな
    盛上がり感だけど、ジャズの雰囲気には合わない」
ピー 「細かく聴きすぎっていうか、考えすぎじゃないの~」
パパ 「この事は、ジャズピアノの秋吉敏子が早くに気付いているんだよ」
    「ジャズ演奏は、芸術的に本場の人間には敵わない、
    じゃ'自分は一体何なの'ってことさ」
ピー 「自分のアイデンティティを見失うんだね」
パパ 「そこで彼女は、日本人のルーツをジャズに取り入れたのさ」
    「彼女が作曲した’孤軍’では、和楽器の鼓を取り入れている」
    「このような芸当は、米国人にはできない」
ピー 「武満徹も、西洋音楽に琵琶を取り入れたノヴェンバー・ステップス
    を作曲しているね」
パパ 「結局、和洋折衷にもっていかないと、他人のフンドシで相撲を
    とっていることになるんだな」
    「その道を極めようとする人ほど、そこで悩むんだよ」
ピー 「何か もの悲しくて 宿命的だね」
パパ 「んで、今もって多くのジャズが作られてはいるが、
    世界が縮小した今日、どれも皆同じ雰囲気に聴こえるんだな」
    「つまり、音楽の中に固有のルーツが聴こえなくなった」
    「これは、世界が文化的に均一化された結果だと思うんだ」
    「また、均一化により、ルーツの感覚も必要無くなった訳だ」
ピー 「黒人も公民権運動により、以前より自由が増したしね」
パパ 「だから今日のジャズは、スウィングやビーバップのように、
    時代を体現している圧倒的な芸術性が感じられないんだな」
ピー 「ふ~む、芸術性か~・・・・・」
    「マイルスの'カインド・オブ・ブルー'が、未だに売上を伸ばして
     いるのも分かるような気がするね」
パパ 「次回は、日本人のジャズの聴き方について論じようぜ」
ピー 「エーっ! 聴き方に問題でもあるの~」
パパ 「問題じゃなくて、ただ面白いだけさ。 フフ」